2025 WIS Review: 競争ではなく協力
- kikkajuku
- 10月11日
- 読了時間: 3分
今回のワークショップを通し、競争という言葉が一度も出てこなかったこと、それを感じなかったことは衝撃的だった。都市圏での判断基準、評価基準のほとんどは、競争にあると感じる。企業同士もそうだし、友達同士の会話もそこに基づいている。例えば、大学へ行き、隣に座っている人たちの会話を聞いてみればわかる。「おれは〜をした」「私は〜を買った」「お前〜できる?」などの会話で溢れている。善悪は別として、非常につまらない。
では下田で出会った人々はどうだろう。競争心が全くない、というわけではない。しかし、みなそれぞれが実現したい事があることを前提として、人が集まり、確実にそれに向かって進んでゆく。他国から来た人が、この光景だけをみたら、日本はなんて民主的で平和で、協調性があるのだろう、と感じるのではなかろうか。
また、印象的だったのは、地元の下田高校の生徒達である。彼らは、物事を俯瞰する習慣がついている。暇な時間にすることの選択肢が少ないと、自らがいる場所の性質を深く考える時間がある。その土地に根付いた文化や習慣が自然環境の中で育まれる。そうして、考え抜かれた価値観が、年齢と共に外から取り入れてきた、もしくは入って来た価値観により、変化していく。その変化のギャップにより、優れた俯瞰能力を身につける。今までの当たり前と、新しい当たり前がかけ離れていればいるほど、大きな成長の種となる。
都会に生まれ、そこで一生を過ごすような人生を送る人にとっては、自ら環境を変えるという選択をしなければ、そのギャップに気がつく機会が少ない。必然的に、人間としての成長の幅が狭い。その点、下田高校の生徒は、環境に恵まれていると捉えることができる。確かに、青年期に出来ることの選択肢が限られている、というのは、一見退屈で、悲観的な思考に陥ってしまう可能性も高いだろう。ただ本当に捉え方次第で、大学生、社会人になるにつれ、増えた選択肢の中で活躍できるのは、下田高校の生徒たちのような存在であるかもしれない。
競争を目的で仕事をしていないということは、仕事が生活の一部として限りなく馴染んでいるということでもある。これは決して、仕事を軸に生活がある、という事ではない。絵の具で例えるならば、赤と青の2色に分かれているのではなく、その間の紫にあたる、グラデーションが発生する位置で、彼らは生活している。二元論的にならずに、赤と青のバランスを保ちつつ調和することが、実は一番難しいのではないだろうか。何事もそうである。YESかNO、善か悪、と偏る方が簡単だ。
これを肌身で感じられるのは、自然の中に身を置いている影響が大きいだろう。現代は何でも、コスパ、タイパを軸に考えられてしまう。このくらいの労力と時間をかけたのだから、それに見合う報酬が与えられるのは当たり前である、と考えてしまうのである。川遊びをしていて、コスパタイパより美しいものを発見してしまった。「思い通りに行かない心地よさ」である。時間と労力を使って、1匹も獲物を捕まえられない。それこそ「自然」だ。この感覚は、人間ならば忘れてはならない。なぜなら、私たちの身体、人体も自然だからである。気づいたら生まれ、災害のような病を患い、あっという間に死ぬ。今回、「自己理解」のワークがあったが、自己、の範疇に収まらない、人間理解に繋がる事である。


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